クララ・ヴィーク 16歳頃
ー①より続きー
話が少しロベルトへ逸れますが、クララがロベルトに作品を贈り、ロベルトもまたクララの作品の主題を用いた作品を贈り返した1831年〜1833年頃(ロベルト21歳〜23歳)、ロベルトはかなり不安定な状況にありました。
ピアノの練習のしすぎで右手を痛めピアノを諦める、ロベルトの師であるクララの父・ヴィークの厳格さに不満を募らせて他の師匠を探し、その裏切りがバレてヴィークから叱責を受けヴィーク家を飛び出し、またこの時期、ロベルトは目の病気も患い、失明する危険も体験。
そのためロベルトはピアノからチェロに転向することも試み、さらには神学の道へ進むことも考えます。作曲家も目指しますが、挑戦した交響曲は未完成のまま…結果またピアノの道へ戻りました。
そしてこのような傍ら、ロベルトは音楽家の集まりなど社交に精を出し、毎晩のように仲間達と音楽論議を交わします。以前から納得していなかったドイツの音楽批評に対抗したこの議論がきっかけで、ロベルトは<新音楽時報>の編集を担当するようにもなっていきました。
ロベルトは音楽雑誌の編集を担当し始め、自身にとってやりがいのある事に向き合い始めてまもなく、
1834年4月、クララが現実的にロベルトを恋愛対象としてはっきり意識せざるえないきっかけが訪れます。
それはヴィーク家にエルネスティーネ・フォン・フリッケン(当時18歳)が、ヴィークの新しい弟子として住み込み、ロベルトと恋愛関係になったことです。エリネスティーネとロベルトは半年と経たないうちに婚約しますが、数週間後、双方の合意で婚約は解消されました。
ロベルトの婚約者となったエリネスティーネ・フォン・フリッケン
この出来事は、クララとロベルトにお互いの気持ちを確認させました。そしてお互いを想う気持ちを確認しあった2人は、1835年11月、初めてのキスを交わし、これが2人の婚約の証となったのです。
想いが通じ、恋のときめきと幸せに身を委ねたいクララに対し、シューマンとクララの関係に気づいた父・ヴィークは、1836年1月、クララをライプツィヒからドレスデンに引っ越させ、ロベルトから遠ざけました。
しかし、クララは引っ越しをさせられてまもなく、2月7日から10日まで、ドレスデンでロベルトと2人で過ごすチャンスを得ます。
この事を知った父・ヴィークは、結局またクララをライプツィヒへ連れ戻し、2人を叱りつけます。そしてクララがロベルト以外に目が向くようにと、クララの演奏会を増やし、ロベルトのことを考える時間を減らし、クララの書く手紙は検閲、1人での外出も禁じました。
父・ヴィークはクララを監視しながら、さらに、ロベルトの素行についても悪い噂を流し、ロベルトの元婚約者との恋愛話を蒸し返して回ったり、クララの声楽教師(男性)にクララの恋人役を演じさせたり、と、
クララとロベルトの恋路をあらゆる方法で妨害。ついにこの父の攻撃に疲れ切ったクララは、ロベルトと別れると承諾し、ロベルトからの手紙をすべて送り返すという行動に出ます。
しかし父に似たのか(?)頑固で実直なクララは、諦めたり、悩んだり、迷ったりする中、ロベルトへの想いを断ち切ることはできず、恋を成就させる事を選びます。
1837年8月14日、クララはロベルトに宛てた手紙で結婚の承諾を記したのです。
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