クララ・シューマン③

1838年 クララ18歳
ー②の続きー 

 ロベルトとの結婚だけを望むクララに対し、父・ヴィークは『21歳以下は親の許可がないと結婚できない』という、当時のザクセン州の決まりを振りかざし、結婚を断固阻止していました。

 しかし音楽で結ばれていた2人。引き続きロベルトに会う事を禁じられていたクララでしたが、クララは『演奏会でロベルトの作品を演奏すること』で、ロベルトは次々と『素晴らしい作品を生み出すこと』で、互いを音楽で一体化させていきます。これはさすがの父・ヴィークも立ち入ることのできない世界でした。

 クララはプライベートな恋愛事情で、ロベルトとの関係に向き合う一方、国内外で名手のピアニストとして絶対的な地位を確立していきます。当時の有名なピアニスト、ジギスムント・タルバーグ、アドルフ・ヘンセルト、またはフランツ・リストなどのピアニストと並んで、クララは平等に扱われるようになっていきました。
 
 演奏家としてのクララの存在が不動のものになっていくことに伴い、彼女の公開コンサートのレパートリーを拡大することも許されていきます。
 例えば、以前はプライベート、またはセミパブリックな演奏会のためだけに許可されていた作曲家の作品(例えばドメニコ・スカルラッティ、ヨハン・セバスティアン・バッハ、ルートヴィヒ・ファン・ベートーヴェン、フェリックス・メンデルスゾーン、ロベルト・シューマンなど)を新しいプログラムに加えることができるようになりました。これはクララの芸術の世界を幅広く表現するために、非常に重要な許可でもありました。
 (この時代は好きなものをいつでもどこでも演奏していいというわけではなかったんですね。使用料をお支払いする現代のシステムともまた違い、実力のある者にのみ、その作品を公開コンサートで演奏することが許される…とは、作品表現のレベルも大切にされていたのだと身を引き締めさせられます!)

 1837年9月〜1838年7月のコンサートシーズン、クララはウィーンで演奏活動を行います。ここでクララは前例のないような大きな成功と、ヨーロッパのみならず、彼女の存在がさらなる諸外国の世界に拡がるチャンスを手にしました。
 特にベートーヴェンのピアノ・ソナタ第57番「アパッショナータ」は、クララを語る上で欠かせない秀逸なクララの演奏が有名です。批評家たちの誰もが絶賛したと言われています。

 ウィーンは<クララ・ヴィーク>フィーバーに陥り、さらにクララは皇帝フェルディナンド1世の前での御前演奏に招待されます。皇帝はクララを「奇跡の少女」と呼び、皇帝は大変喜び宮廷音楽家の称号を与えました。
 一方、クララがウィーンで大成功を収め頃、ロベルトもウィーンで暮らしました…が、そのロベルトのお話はまたロベルト編で書き留めていくとして、クララの話を進めていきますね。

 ウィーンでのコンサートシーズンの終わり頃、1839年6月、『クララの父の賛同を得てから結婚するのは無理だ』と、諦めたロベルトは、クララの承諾を得てから、弁護士を通じて訴訟手続きを依頼します。
 さらに『親の許可』があれば許されるという点に着目したロベルトは、ヴィークとの離婚後、ベルリンに住んでいたクララの母親・マリアンネ のところへ出かけ、クララとの結婚の同意を得ました。

 この時期はクララにとって、クララがのちに言う『もっとも最悪の時代』でした。
 訴訟を知って激怒した父・ヴィークは、クララがピアノを弾くことさえ禁じ、家から追い出し、クララは彼女のキャリアを一旦休止させて、ベルリンから迎えにきた母・マリアンネとともに暮らし始めます。
 
 この時のクララの心の痛みは、父によって傷つけられただけのものではなく、父に認めてもらえないという悲しみにも打ちひしがれたものでした。クララが20歳の時に書いた日記にも記されていたように、「これからの父との戦いに打ち勝てるよう、天よ、充分な力をお貸しください。父が私のためにしてくれたことを思うと、胸が張り裂けます」と、父との確執にとても胸を痛めていたのでした。

 幼少期からクララと別居していた母・マリアンネとは、その後も繋がっていた経緯があったので、マリアンネは母としてただクララを慰め、クララ21歳の時の北ドイツでの演奏旅行に伴走したりしていました。
 クララを支える一方で、母・マリアンネは、2人のためにライプツィヒの裁判所に手紙も送っています。

 このようなロベルトとクララの母・マリアンネの行動に対して、争いの期間中、父・ヴィークは何一つ、自分にプラスになるようなことができずにいました。
 法廷ではわめきちらし判事からたしなめられ、街でロベルトに会えば平手打ちを食わせ、ロベルトへの攻撃だけでは形勢が不利になったため、クララを動揺させようと偽名を使ってロベルト非難を並べ立てた手紙を書き、クララのリサイタル当日に届けさせるという(セコさ)… このことはロベルトが名誉毀損を訴える案件となり、さらにヴィークの立場を追い込みました。

 約1年近くの争いを終え、1840年8月12日(2人の出会いから12年後)、ようやくクララとロベルトの結婚を許可する判決が下ります。
 そして1ヶ月後の9月12日、ライプツィヒ近郊のシェーネフェルト教会で2人は結婚式を挙げたのでした。

ライプツィヒ近郊にある シェーネフェルト教会

a gate

毎日音符たちと過ごす Sängerinのおしゃべり

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