ー③の続きー
結婚式数日後、クララとロベルトの2人はライプツィヒのインゼル通りに新居を構えます。
現在は美術館のように見える小学校とコンサートサロンが併設されているこの記念館は
(写真の建物です)、1838年ロベルトとクララの結婚2年前に建てられた建物でした。
2人はこの住居の最初の入居者として最上階に住み始めます。2人は約4年間、ここで
暮らしました。
この住居には、メンデルスゾーンやリスト、ベルリオーズなど錚々たる面々が迎え
入れられています。
特にメンデルスゾーンは<ゲヴァントハウス管弦楽団楽長>としてクララとコンサー
トで共演することも多く、この2人の新居へ頻繁に訪れたそうです。
さて、クララの人生に話を戻しますが、ロベルトは結婚前から、クララが<ピアニス
ト>として活躍することを望んではいませんでした。
「きみ(クララ)が外で演奏することをやめてくれたら、僕(ロベルト)が密かに
抱いている最大の願いが叶うことになるのだが…」などと表現し、特に結婚したばかり
の年はクララに在宅を望んでいたことなど、多数のエピソードも残されており、
男性としてのロベルトの気持ちを身近に感じとることができます。
クララにとって結婚生活は、クララの心に光と影が伴うものでした。
音楽家としてロベルトと楽曲を研究できる幸せな時間の傍ら、ロベルトの期待する、
<家庭的な妻>という役割…経験のない主婦の仕事はクララを不安にもさせました。
2人は向き合って直に話し合うのではなく、交互につけていた『夫婦の日記に書く』
ことでお互いの気持ちや考えを述べ合っていましたが、クララは演奏家としての練習
時間の確保が難しい生活を強いられ、演奏活動を制限されることで精神的に不安定に
なっていきます。
クララ自身の望むような音楽家生活がままならない中、1840年、歌曲作品を次々に
生み出し続けたロベルトからの勧めを受け、クララは歌曲作品の作曲に取り組まなけ
ればいけなくなります。
クララ21歳、ロベルト30歳、ある日、ロベルトはクララに語りかけます。
「クレールヒェン(クララちゃん)、僕の<新音楽史雑誌>に掲載するようなことは
ないかい? 僕は多くの作品を作曲しているのに、きみはぼんやりと過ごしている、と
いうことに何か思うところはないのかい? …そうだ、歌曲作品を1つ作るといい!
一度歌曲製作を始めたらそれを手放すことなんてできなくなるほど、それは魅力あふ
れたものだよ」
翌日クララは早速その提案に取り組みます。ですが、「作品の完成度」にプライド
を持っていたクララは
「私には歌曲製作なんてできない、この挑戦は時として私を不幸にさせ、落ち込ませ
る…私は怠け者なわけではないの、才能がないの。1曲完成させることすら…1曲作曲
する、テキストを手中に収める、そこにインスピレーションも必要となる…無理だわ」
クララは歌曲製作に向いていないことをロベルトに訴え歌曲作曲を断固拒否します。
しかしロベルトは、歌曲製作を諦めたクララの様子は気に留めず、さらにクララに
歌曲製作を強くアプローチ。ロベルトは夫婦の日記にも
「クララ、僕が作曲した歌曲作品をきみに渡したのに、きみはそれをまったく想って
くれないのだね」と書き記しました。
同年12月上旬、ついにクララは夫・ロベルトの提案を受け入れ、再び歌曲製作に
取り組みながら、自身に向けてこう語ります。
「私はすでに8日間、ピアノから離れたまま…彼の願いであったと想像する通りに、
ロベルトが出かける時間はすべて、歌曲作品の作曲に取り組み続けました。
彼へのクリスマスサプライズプレゼントにしたい一心で、やっと3つ仕上げました。
これらはきっと価値などなく、とても微妙な結果となる挑戦…ロベルトが寛容にこの
作品たちを受け入れてくれることを願うばかりです。
私が歌曲製作に取り組むことは彼の一番の願いであったでしょうし、彼のすべての
願いとも思えるほどの強い要求だと感じました。どうか私がこのように彼に応える事
が彼を満足させることになりますように…慈悲深い私の友よ、溢れるほどの愛を込め
てこの作品をあなたに贈ります」。
この3曲はのちにクララ・シューマンの作品の中でも秀逸な3曲と言われます。
この中の1曲はロベルトの<新音楽史雑誌>の中にも登場し、他の作品ものちのメン
デルスゾーンやロベルトの作品にインスピレーションを与えた歌曲でもありますが、
私は、クララの歌曲作品が持つ『女性的な感受性』の柔らかな繊細さと、ドイツ語の
自然な発音とニュアンスを丁寧にアナリーゼして作曲している個性が、作品の意を
素朴でストレートに伝える力に繋がっている、訴えかけの深い作品だと感じています。
ロベルトはこのクララの3作品が制作されて以降、夫婦での共同歌曲集出版のプロジ
ェクトを考え、出版社にも話を持ちかけます。
多くの作曲家、作家達が作品を生む苦しみを味わうように、クララはこのプロジェク
トに取り組むことになって何度も挫折を味わいます。
作曲に集中し切れない『初めての妊娠によるつわりの時期』までも重なり、何度も
ロベルトに「無理です」と訴えながら、ロベルトの期待に応えるべく、歌曲作品の制作
に挑戦し続けました。
そして1841年ついに新たな4曲を仕上げ、ロベルトの作曲した8曲と共に夫婦共同作
品<愛の春>として出版されるにことになります。
ロベルトはこの歌曲集の作品にリュッケルトの詩を用いました。
ロベルトはリュッケルトの詩おける『博学で、民謡持つ厳格さや素朴さを失わない
熟達したリズムや技巧』を尊敬し、愛していました。
クララとロベルトが作曲したリュッケルトの作品らは、詩が『穏やかで雄大であり、
非常に明瞭であること』が特徴です。
そしてこのような作品の根底にあるものが、当時のクララとロベルトと生活ぶりとして
表現される『厳格で素朴さを失わない』生き様と強くリンクしています。
このような形で始まったクララの結婚生活、そして歌曲作品制作は、その後1853年
(ロベルトが自殺未遂をした年)まで続くこととなっていくのです。
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