ー④の続きー
1840年の結婚、41年の歌曲作品作曲への挑戦、妊娠、出産、そして僅かな(し
かし大舞台での)演奏活動を経て、1842年、クララは再び演奏活動を活発に行う
兆しを見せ始めます。
ライプツィヒを筆頭としたドイツ国内の演奏会の先には、コペンハーゲン、スト
ックホルムと長期不在が不可欠な国外への演奏旅行も続きました。
クララにとって演奏活動は彼女の望みでもありましたが、家計の立て直しを考慮
したものでもありました。しかしロベルトはこのクララの活動を受け止め切ること
ができず、彼女の不在中に昔の悪癖だった賭け事や飲酒に溺れていきます。
このような中、1843年(クララ24歳)、2人目を妊娠していたクララは、一方で
父・ヴィークと再会すべくドレスデンを訪れています。
この頃ロベルトは、数多くの歌曲作品、室内楽作品、2曲の交響曲を評価され始め、
作曲家として重要な人物と認識され始めていました。
そのため2人の結婚に反対し、断絶していたクララと父・ヴィークではありましたが、
音楽界に精通していた父・ヴィークはむしろ『ロベルトの存在を認めなければ、自分
の音楽界での立場が孤立していく』ように感じ始めます。
ここは自分のためにも和解が妥当ではないかと考えを改め始めたところへ、クララ
が再び訪問してきてくれた…クララにとっても長年の願いであった父との和解は、
気持ちのタイミングも合いとてもスムーズに叶えられ、クララの心の重荷を取り
除かれ、クララとロベルトの結婚の許しをもらうことができました。
翌年(1844年)以降、クララは2人目を出産したあと、2人の娘を預けて、ロベルト
と共にロシアへの演奏旅行へ出掛けます。
4ヶ月間の演奏旅行では、クララにとってロベルトが負担に感じられる時間もあり
ました。それはクララが精神的、身体的なロベルトの甘えを受け止めていたから、と
言えますが、ロベルトはその関係こそが夫婦である、と考えていたこともあり、クラ
ラはそんなロベルトに疲弊しながらも、ロベルトを支えながら演奏活動を続けます。
貴族達の休暇中で演奏会場が満席にならない公演ばかりだったにも関わらず、クララ
はロシアでも女性芸術家として不動の人気を得ることができました。
ロベルトが身体的に負担だと感じていたことの要因の一つは、この旅行の道中、
穴だらけの道の悪い中を長時間移動しなくてはならなかったことでした。
この旅行はロベルトの身体に大きなダメージを与え、帰国後3ヶ月間、ロベルトは
虚脱状態へ陥ってしまいます。
身体的なストレスは精神にもさらに打撃を与え、ロベルトは時間をかけて療養するし
ますが、そこでは好転的な変化は見られませんでした。そしてこの旅行でのダメージは、
のちのロベルトに深く影響を及ぼしたとも言われているほどの打撃となっていたのです。
これらのロベルトの体調の変化、そしてライプツィヒで音楽家として多くのチャンスを
もたらしてくれた友人・メンデルスゾーンがベルリンへ召喚されることをきっかけに、
クララとロベルトはドレスデンへの転居を決意することになるのです。
この場所は1825年から1835年までクララが父・ヴィークと住んでいた場所に残されている案内。
特に1830年から1831年はここにロベルトも同居していた、と書かれています。
クララにとってもライプツィヒの思い出深い場所だろうと思いを馳せてしまいます。
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